出生の事情から、自分は汚れ、義父の淫らな躾にさえ愛があると信じていた桃彦。出会った有儿は薔薇や水仙の香る庭々を案内したり、人柄のよい執事たちと共に外の世界を教えてくれる。そっと抱き締められるだけでも震えてしまうのは、そんな優しい有儿に自分は相応しくないと思ってしまうから。
どこまでも一心に愛される幸せが永遠ではないと受け入れている桃彦の、切なく狂おしい決意を見届けてください!
表のざわめきもすっかり聞こえなくなり、一つ深呼吸をした有儿は、視界の隅でなにかがひらりと動くのを認めた。ふと顔を向け、テラスに面したガラス扉が開いて、そこからレースのカーテンがひるがえっているのを見た。
「……」
なにを考えたわけでもない。ただなんとなく、ああガラス扉が開いている、と思っただけだ。ふらりと扉に向かい、タイル敷きのテラスから開け放たれた扉の内を、なにげなく見た。そうして、ハッと息を飲んだ。
(人か……? それとも人形か……?)
明かりの落とされた部屋で、窓際の寝椅子に横たわるそれ。月明かりに照らされた髪は、黒よりも少し明るい気がする。白百合のような肌色、細く華奢な鼻、影を落とす長いまつげ。少し体を丸めて、幼児のように眠っている……、そうだ、眠っている。かすかに胸が上下している。
(少年……、それとも少女か? 日本人ではないようだが……)
眠っていても美しい顔だった。性別を不明にしているのは、その衣装も原因だ。身につけているのは着物だった。それも女物のような華やかな元禄模様だ。けれど、外国人はガウン代わりに色柄の美しい着物を着るから、特にめずらしくもない。帯結びがわからないのか、細帯を前で蝶結びにしているのが愛らしい。裾から見える足は裸足だが、足首が細くて、そこでも男なのか女なのか判断がつかない。ともかくも、美しく不思議な生きものだと思った。
「……」
起こさないように、そっと室内に入った。テーブルを挟んで、美しい生きものの向かいの椅子に腰を下ろす。綺麗な寝顔を微笑を浮かべて観賞していると、ぴくりとまつげが揺れた。まるで有儿の視線で起こされた、とでもいうように、美しい生きものはゆっくりとまぶたを開けた。
「……」
まだ夢でも見ているように、美しい生きものはぼんやりと宙を見ている。しばらくして、静かに一つ深呼吸をしたそれが、キュウウと伸びをして、ゆっくりと体を起こした。その体の線を見て、ようやく有儿は、この美しい生きものが少年なのだとわかり、その美貌に呼吸を忘れた。まるで博覧会で見た蝋の人形のようだ。生きて動いているのが信じられない。魅入られたように少年を見つめていると、少年もようやく有儿の存在に気がついた。
「……っ」
ビクッというよりはピョコッという感じに体を揺らして、少年が驚く。とっさに両手を体の前で、キュウと縮こめたのが愛らしい。歳の頃は十六、十七……そのあたりだろうかと有儿は考える。なにしろどこかの令嬢のようになよやかな体なのだ。病気でもして外に出られず、だから細いのだろうかと思いながら、驚きすぎて固まってしまっている少年に、優しくほほえんで声をかけた。
「おはよう」
いたずら気分でからかってみる。やはり少年は外国人、それもエドモンドと同じイギリス人なのか、有儿の口から出た綺麗なクイーンズイングリッシュにさらに目を丸くした。まるで、初めて自分以外の人間に出会った人間のような反応だ。面白くて、有儿はクスクスと笑いながら自己紹介をした。
「驚かせてごめんね。僕は有儿。鷹丈有儿というんだ」
有儿が名乗ると、少年は体の力を抜きながらも、まだ驚いている表情で有儿を見つめた。観察をしているといった様子だ。日本人がめずらしいのだろうかと有儿が思うと、ふいに少年がほほえんだ。花が開くようなとはこんなほほえみだろうと思うほど美しく、衝撃的な表情の変化だ。不躾なほど少年を見つめ、見惚れる有儿に、少年はとろけるような微笑で、甘くうっとりと言った。
「ユウジィン……」
「……」
まるで愛の詩でも口ずさむように名前を呼ばれた。有儿の鼓動が一つ大きく跳ねた。胸の奥で火がともったように熱くなる。もう何年も覚えていない、ときめきだ。足のある人魚のように寝椅子に座る少年に、有儿は怖がらせないように、そっと身を乗りだして尋ねた。
「名前を聞いてもいいかな」
「あ……、アンドリュー……」
「アンドリュー……、アンディだね」
「……はい……」
アンディがはにかんだような微笑を見せる。それもまた美しくて、有儿はますますアンディに惹かれた。
「アンディは、夜会には出ないの?」
「僕は、夜会は、出ません……」
「そうか。それが一番いい。僕も義理がなければ出たくないからね。……なにか、飲み物を取ってこようか」
「いいえ……」
「でも、夜寝から覚めて、喉が渇いているだろう?」
「夜寝……」
クスクス、とアンディが笑う。
「うたた寝をしてしまって……、扉を開けておくと、薔薇の香りが、するんです……」
「薔薇が好きなの?」
「いいえ、あの……、いい匂いが、好きなんです……」
「ああ。僕もいい匂いは好きだな」
子供っぽい言葉を笑いもしないでほほえんだ有儿に、アンディもまたはにかみ笑いを返してくれる。どうやら嫌われてはいないようだと思い、ひどく嬉しくなって有儿がにっこりと笑うと、アンディは月明かりでもわかるほど頬を染めた。
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